アジサイ遊歩道今昔物語

  豊田町 平山幸男(元多古町助役)

はじめに

 今、アジサイ遊歩道は、道の駅と共に本町の代表的な観光資源ともいえる存在となっている。往時は『茫々夢の如し』というが、既に三十有余年の歳月を経た今、記録に残そうと記憶をたどるも薄れてしまい、特に持ち合わせの資料がないので役場へ行き、当時の広報・計画書等担当者に探していただいた。限られた資料を中心に、その当時の記憶を懸命に蘇らせて書いてみた。
 この資料が、今後の町おこしの参考になれば幸甚この上ないと考える。

昭和54年〜55年

 昭和55年は1980年の幕開けの年である。このころの国のキャッチフレーズは、「80年代は地方の時代」といわれ、70年代の「日本列島改造ブーム」のバブルが完全に崩壊し、成長の反動の不景気の時代でもあった。国も全国の市町村に1億円ずつ自由に使える交付金を支出し、各市町村が創意と工夫のふるさと創生作りのチエの競争も80年代の産物であった。
 本町は、53年に待望の成田空港が難産の末に開港し、空港周辺市町村として多古住宅団地や、水戸工業団地など発展の要素をいっぱい秘めた、ある意味でいえば洋々たる未来の展望が期待されたころであった。このころ53年に県地方課(現市町村課、従来は指導課として事業予算は全然なかった。)が、初めてコミュニティ環境整備として3億円計上し、2分の1補助、最高額5百万円として市町村のコミュニティ事業に補助することを決定した。
 本町は、53年度は元中学校のプールであった町民プールの管理棟設置に3百万円、54年度、55年度2カ年事業で多古大橋〜飯土井間の町側堤防にアジサイを植樹し、歩道を整備する遊歩道事業を申請した。当時地方課でも大部分の市町村が集会所などの箱物ばかりの中で、多古の遊歩道事業は珍しいと工事後担当者が視察に来たことを記憶している。
 当時の堤防は、葦の草丈が人の背丈の2倍くらいあり、堤防上も葦を分けてやっと人が通れる状態で全堤防を一貫しては通れぬ状態であった。この堤防の路面、法面は抜根し、法面は芝を張り、堤防上部に小さなツツジ、中段にハギ、下段の内排水路の犬走りにアジサイと、春・夏・秋と花を楽しむ遊歩道として計画をした。
 その計画は、当時県の出先機関の八日市場土木事務所との事前協議の要があったが、計画段階で、千葉日報佐原支局のM記者が知り、千葉日報北総版に写真入りで報道された。それを知った県庁河川課が八日市場土木事務所へ多古町と協議をしたかの紹介があり、同事務所より、協議がないので呼び出され、大目玉を食う羽目となった。
 当時のやりとりを再現すると、同事務所次長M氏「河川堤防は洪水決壊を防止するため、樹木を植えることは一切認めないことになっている。したがって天場のツツジ、中段の花、下段のアジサイ等一切認められない。」とのこと。「下段のアジサイは、犬走りで堤防ではないから認めていただきたい。」とお願いすると、M氏「樹木は一切認められない」とのこと。「アジサイは樹木ではなく草である。」「アジサイがどうして草なのか?」「樹木は年月が経てば背丈が大きく、幹も太くなり、人が登ることができるが、アジサイは百年経っても太くもならないし、背丈も伸びない。故に登ることができないので草である。」何か禅問答のような応酬の末、渋々、下の犬走りに排水側に危険防止の寅ロープを張ることを条件に許可されることになった。
 予算化し12月の定例会に議案が提出されたが、議会でも議論百出「あの葦の中では雑草に食われてしまう」「アジサイは日陰の植物で、あのような日光の中では育たぬ」「夏の西日に弱いし・・」等々。それでも計画は討議の上、全員賛成で可決された。それだけに失敗は絶対に許されぬと自分なりに覚悟を決めた。
 工事は冬場に抜根、張芝そして植樹とされたが、河原は工事外であるので、雑草特に川沿いにはノバラの大きいのがいっぱいあったのを、企画室男子職員全員で、2月ころ風のないおだやかな静かな日に野焼きをした。その頃は、野焼きは冬場どこでもやっていたが、積年の雑草・樹木なので川の傍とはいえ、すさまじい火勢でちょっと気になったのを覚えている。
 最初の54年度事業が完成し、見違えるような道路となり、再び農道として農家の人たちも使えるようになったので、農耕車以外が入れぬように車止めの柵、鍵を農家組合に渡すなどあったが、町民には好感をもって受け入れられた。
 ところが、4月、5月になると葦の抜根ができなかった残りがいっせいに5・6ヶ所から芽吹き始め、たちまち堤防が日々緑色になっていった。葦の新芽は1尺くらいに芽が伸びた時を見計らって何回か刈り取れば2年ほどで絶えると農家の人から聞いていたので、日曜日ごとにひとりで、鎌を使い堤防の芽刈りをやった。新芽が多く出るところは5、6ヶ所あったが、3、40分もやれば終わった。最初の年は新芽との戦いを5、6回やった。2年目になると、とたんに出なくなった。55年度事業は造園会社が落札したので、この抜根は特に念入りにやるように頼んだので、2年目工事分には芽刈りの必要がなくなり、あとはアジサイも順調に生育し、「日陰の花」も「西日」も杞憂に終わった。私も遊歩道事業を完成した翌年、企画室から総務課に異動した。
 時移り年月が過ぎたある日、偶然にも正午前のNHKの天気予報を見ていると、バック画面は、町の遊歩道の満開のアジサイの姿ではないか、いつNHKが写したか知らなかったが、この年からアジサイ遊歩道に観光バスが来るようになった。

遊歩道のその後

 アジサイ祭りも昭和60年6月から開催され、「多古米献上行列」・「ミスアジサイコンテスト」など多彩な行事が町民参加の下に行われ、遊歩道整備事業を町内外の好評の中に順次整備された。
 59年度から平成2年度まで、7ヶ年事業で、まちづくり特別対策事業として、地域総合整備事業債という起債や、県のコミュニティ育成事業・ふるさと川づくり事業など県補助金もつき、一般財源も投じ、すでに植栽された高田側に加え、多古大橋〜竹橋間の両側の除草・張芝・杭打ち・植栽各工事や、憩いの広場整備・野外ステージ建設・アジサイ橋架橋(橋長56.8m・幅員3m)公園用地取得事業(現在の道の駅周辺)等で、合計3億3千3百余万円で整備された。
その後、建設省事業で、道の駅事業が始まると成田土木事務所長より当時の菅澤重矩町長に、「成田管内で道の駅を一ヶ所作りたいので、是非多古町にお願いしたい」と要請され平成9年で設計が完了した。
戦後、地方自治の市町村行政が始まり、昭和49年4月から平成10年3月までの24年間、教育施設の整備、工業団地の誘致、庁舎、現在の中央病院、コミュニティセンター、町道の整備、北総東部用水・成田用水両事業を始めとする土地改良事業など、戦後町政の中興の祖といわれる菅澤重矩町長の果たした仕事が終わった次第である。

終わりに

 今、原稿を終了するにあたり、往時を回顧した時に思い出すのは、今年の1月上旬に家族で房州に一泊しての帰路、富浦の道の駅「ビワクラブ」に寄った。仄聞するところ、富浦は、千葉県最初の道の駅とのことであったが、海に近いこの駅は、魚市場然として魚屋が競い、買い物客が多く、活気はあるが、道の駅裏側は細い谷川のような汚れた川があり、景観は悪く魚屋の駅という感じを強く持った。それに比べわが町道の駅は、かつて市原正夫先生に寄稿していただいて町広報に紹介された「遊歩道談義」の一部を紹介すると、「・・・下総台地に入り河川特有の台地と低地の織りなす景観と、悠々と流れる栗山川、広く悠然とした大耕地、これをバランスよく緑の台地が囲い・・・」「そこにアジサイが咲き誇る姿、加えて下流の野鳥の楽園、この風景の一つ一つが地方固有の地方文化を築いていく大切な営みである・・・」とある。
 変わらず物質至上主義の富浦と、訪れる人たちがホッとするような心の豊かさを感ずる多古町の道の駅「あじさい館」の名のとおり遊歩道と一体のわが町の方が優れている。道の駅の西側と東側では全然景色が違いますねと、観光客が話されていたが、住んでいる町民にはいつもの景観しかわからないので、それが当たり前と思っている。
 かつては樹木一本植えられなかった堤防に、応募で町の有志の方々が河津桜を寄付し植栽された。アジサイも堤防側面に何段も植栽されている。まさに隔世の感がある。そして今、遊歩道はシルバー人材センタの人たちや関係者に丁寧に管理され、清掃されている。また本年は、国道296号沿いの駐車場から道の駅に観光客が安全に来られるように多古大橋の下に歩道が設置された。
 関係者に深く敬意と感謝を申し上げ、わが町の遊歩道よ永遠なれと祈りながら擱筆する次第である。(平成22年2月)

アジサイ遊歩道

付記

交差点

  三木記者
 うっとうしい梅雨どきは気が滅入ってしまう。そんな時、町の路地などでアジサイを見るとちょっと気が晴れる。水色、ピンク色をしたアジサイは、いまが見ごろだ。ふと5、6年前のことを思い出した。
 殺ばつとした県警回りから初めて地方回りに出されたときだった。名刺1枚持ってカメラをぶら下げ、香取郡の多古町を訪れた。企画室に行くと平山さんという室長が「こんな田舎、新聞記者など来た事ねェ」といいながら一時間ほど雑談した。その話の中で、平山さんは、栗山川の堤防に千株のアジサイを植え、遊歩道を作りたい、と話してくれた。「新しいふるさとづくりをやりたいんだ」とー。
 それから間もなく、例の“地方の時代”という言葉が生まれた。
 堤防を遊歩道にする計画は、当初、県土木部などからクレームがつき、計画倒れか、と思われたが、ねばり強い説得で、55年、栗山川右岸に完成した。“明るい町ダネ”になった。その後、利根川べりの町に転勤となり、多古町に出向く機会も少なくなってしまった。
 ムシ暑い記者クラブで他社の記者たちとゴロゴロしていると、「千葉日報さん、お電話です」。デスクから原稿の催促かと思ったら、多古町の広報担当者からで、「アジサイ祭りをやるから、見に来てほしい」といってきた。「29、30の2日間、アジサイ祭りを行います。町内の各種団体が自主的に参加、企画、運営をします。アジサイ娘のコンテストもあるので、是非、取材をお願いしますッ。」受話器の向こうで丁寧に教えてくれた。聞いていてあのころの栗山川を思い浮かべると同時に自分を恥ずかしく思った。「こんな田舎、記者なんて・・・」という平山さんの言葉を思い出した。
 サツ回りと違い、地方回りは案外自由だ。「忙しい」といってしまえば地方ネタの一、二本はボツになってしまう。「必ず取材にうかがいます」といって電話を切った。  (昭和60年6月28日 千葉日報より)

堤防飾る一万株

   多古・栗山川アジサイ見ごろ
 多古町を流れる栗山川の堤防に植えられたアジサイ1万株が見ごろを迎え、水色や紫、ピンクなど色とりどりの花が訪れる人たちの目を楽しませている。
 同町が約20年前、環境美化のために栗山川の両岸の堤防に約1キロにわたって植栽したもの。最近は「アジサイの名所」として有名になり、週末には東京や埼玉など他県からバスツアーで訪れる観光客もいる。今年は花がやや小ぶりだが、花のつきは良いといい、今月いっぱい楽しめる。(平成13年6月13日 毎日新聞より)

遊歩道のアジサイ

ふるさと栗山川の自然

    あじさい遊歩道談義
   高野前 市原正夫(元県立美術館館長)
 率直に言って栗山川の地形と周辺の環境を生かした素晴らしいアイデアと思っている。私も今までの仕事の関係で、県内各地の河川流域や丘陵地帯を歩いたが、このところ、わが故郷多古町の風物のすばらしさをしみじみと味わっている。「あじさい遊歩道」の良さは、下総台地に入りこもうとする河川流域特有の台地と低地の織りなす景観で、悠々と足下を流れる栗山川に配するに、視界をさえぎることのない、広くかつ整然とした大耕地である。そして多古台、駒木台、中村台、島台が、これを遠くなく近くなく、バランスよく緑の囲いをめぐらし、そしてその直下に弧状を描いて展開する町並みの景観まさに一幅の名画である。
 この地は、かつて明治34・5年頃、わが国洋画の先駆者の一人である堀井正章画伯が、時の県知事・安部浩の命により、多古の耕地の風景を描写し、第5回全国勧業博覧会に出品し、大評判となった原風景でもある。
 アジサイは、その梢上に大型球状に配列した多数の花を開き、その色は、淡紫碧色や白、薄青色、或いは薄紅色など、俗に「七変化し」とも呼ばれ、変化もあり花期も比較的長く、花木の選定も格好のもので、この千本のアジサイが、すくすく成長し千二百メートルの堤防に咲き誇る姿は、周辺の環境とあいまって、さらに魅力ある田園風景を展開することであろう。
 以上は、遊歩道の眺望、景観論で散策の道としての一面であるが、さらに魚釣り、サイクリング、ジョギング、写生から自然観察、歴史散歩等、多彩な機能をもった遊歩道でもある。
 日本野鳥の会千葉県支部発行の「千葉県探鳥地案内」によれば、栗山川本流と借当川の合流する新竹橋附近は、春は内陸性のシギ・チドリ類、夏はオオヨシキリ・セッカ・カルガモ・サギ・カッコウ、冬はカモ類・小鳥類に、ハイイロチュウヒやノスリもやってきて、県内で著名な鳥の楽園で、この堤防からその飛び交う姿と鳴き声を楽しませてくれる。
 歴史的な面でも、この川にまつわる話題は多く、多古米を中心とした水運、明治27年の水騒動、山倉大神とサケ、周辺の多古城、並木城、島城の史話から耕地整理の話など興味のあるところである。そこで、この遊歩道に寄せる今後の課題の第一は管理の問題である。
 栗山川の水をきれいにすることは当然であるが、堤防の路面や犬走り、水路を常に整備することが遊歩道の生命である。それには町の管理とは別に一般の協力が極めて大切であって、今回のアヤメ園などはまさに大ヒットである。
 第二は、遊歩道の機能にふさわしい施設をすることである。河川堤防として公的な制約はあるが、ベンチほか設置されたものに加えて、ジョギング等の距離施設、地理、歴史的な説明板、外灯、水飲み場、あずまや等も欲しいとこである。
 第三は、将来的には延長と対岸の整備の問題である。当面この区間で試行し、その効果と反応を見て、上・下流に伸ばしていきたいところである。
 第四は、これだけ整備された遊歩道の一層の利用を高め、多くの人に親しまれるための方途である。機能を生かした色々な催しを考えることも必要であろう。
 一町民として、栗山川を美しくしたいというきもちから、財政的なことも考えずにペンが走ってしまったが、今日文化の時代、地方の時代と言われているが、それは単なる掛け声だけでなく、この「アジサイ遊歩道」のような施策の一つ一つが、その地方固有の地域文化を築いていく大切な営みであることを思い、この事業の発展を祈っている。(昭和55年 町広報より)

遊歩道のコスモス

編集後記

 多古町を活性化するため栗山川という恵まれた自然を最大限活かし、観光客を呼び込もうというアイデアは素晴らしい。この考えを埋もれてしまってはだれの発案でアジサイ遊歩道ができたか年数が経てば忘れ去られてしまう。完成までの発案やら、その過程、苦労がわかってこそ意義深いものであろうと、平山さんに原稿をお願いして編集をさせていただいた。また道の駅(北総で最初・千葉県で二番目)も、平成13年に完成し、観光客も年々多くなっている。観光客の中にはリピーターも多い。週一回、週二回と来町して下さる方もいる。
 道の駅「アジサイ館」に来られたお客にお聞きすると、「ここは素晴らしい景色ですね。東側と西側では全然景色が違いますね。」「こんなにすばらしい所が千葉県にあったなんて知らなかった。」「堤防の芝がいつもきれいですね。」「これだけキレイに管理されているのは町民のみなさんもたいへんでしょうね。」「お花が安いので買いにきました。」「野菜が安くて新鮮でいいですね。」等々交わす言葉は、いつも褒め言葉が返ってくる。このような言葉を聞くと、もっと町を愛し、栗山川の自然を町民全員で守っていき、観光客に魅力をもっていただくために力を合わせ、アイデアを出し合って町の良さを引き出し、町民全員で町活性化のために支えていかなければと考える。
 道の駅周辺は毎日大勢の観光客やら買い物客で賑わっているものの、市街地を歩いている姿、買い物を楽しんでいる人々、市街地の道で楽しげにオシャベリしている姿はあまり見られない。このように多古町に足を運んでくださる方たちを市街地に呼び込む工夫も考えていかなければ、どこにでも見かけるシャッター通りになりはしないかと心配する。
 多古町へ行かなければ〇〇だけは食べられない、といった町のブランドものがないのが残念です。現代は、一工夫も二工夫の努力がなければわざわざ食べるために訪れる人はいないことも確かである。土地のものを使い、工夫を加え、努力してよかったといえる喜びにひたれるような、素朴でも、そのような食品が出ることを望んでいる。
 「日本全国なんでも日本一事典」に、多古町の日本一が二つ載っている。一つは、「アジサイ遊歩道(距離)」、もう一つは「しいかご舞い〜多古町祇園」である。
 また、今は廃刊になったが、「クオーク」(昭和59年5月号だったかも)という月刊誌に、「多古米はなぜおいしい」という記事も載っていた。
 そのほかにわがふるさと多古町には、日本一といえるものが他町に比して意外と多い。「ダイナマイト用の火薬輸入」「国会開設提唱者」「田んぼの耕地整理」等である。栗山川に沿って開けたということもあって文化財の宝庫でもある。
 千葉県一のものも存する。千葉大学病院初代院長、旧多古町郵便局(高野前)等々。
 もっともっと多古町のよさを知っていただき、さらにふるさと多古町が、いにしえより共に歩み続けてきた栗山川と、今後も活性化に向かって栄え続けることを願い、アジサイ遊歩道のあゆみをここにまとめさせていただいた。(平成22年3月吉日 加瀬正一)
 追伸〜平成22年5月のテレビ番組で、県内道の駅の人気度を調べた結果、多古道の駅「アジサイ館」は2位という好成績であった。新鮮な野菜・花に人気があるとか。因に1位は房州富浦「ビワクラブ」である。3位は南房総市(旧富山町)の「ふらり」である。

橋の下の遊歩道

 毎日新聞(平成22年6月26日)千葉版の記事アジサイ遊歩道を次に掲載します。

地上の虹 アジサイ満開

  多古・栗山川沿い「日本一」の遊歩道
 多古町を流れる栗山川沿いで、アジサイが満開となっている。両河岸が計4キロにわたって虹色に染まっている。この河岸は「日本一長いアジサイの遊歩道」として知られている。1978年から15年間かけて、町がふるさとづくり事業で町花のアジサイ1万株を植えた。青、白、紫、ピンクなど色とりどりの「ニホンアジサイ」「ガクアジサイ」など15品種。遊歩道の一部には「道の駅・アジサイ館」もあり、観光客らが土手の芝生からさかんにカメラを向けている。今月末まで楽しめそう。
 町内の古寺「日本寺」でもアジサイ8000株が見ごろ。いずれも無料。(毎日新聞 平成22年6月22日 武田良敬)

 写真は現在のアジサイ遊歩道をホームページ管理者が撮影して掲載したもので、原稿を書かれた方々が撮影したものではありません。

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