軽便鉄道のこと

 明治43年(1910)に公布された「軽便鉄道法」に従い、全国で大小さまざまな軽便鉄道敷設が進んだ中、地方自治体が積極的に関与した例の一つが千葉県である。
 そのキーマンは明治41年(1908)に第11代千葉県知事に就任した有吉忠一だった。
 有吉知事は、千葉県は首都東京のとなりにありながら、道路網や鉄道など、交通手段が非常に貧弱であることを憂えていたが、陸軍の鉄道連隊が千葉に移転したことを機に、その含み資材を活用して県営鉄道を敷設し、場合によっては運営もさせるという大胆なアイディアによって県内の鉄道網の充実を図ろうとした。紆余曲折の末、鉄道連隊の協力を得て実現をみた千葉県営の鉄道は、千葉県営軌道長南線(実験線、人力610km)野田線(蒸気、1067km、現・東武鉄道野田線一部)、久留里線、千葉県営人車軌道大多喜線、多古・八街線である。ちなみに有吉忠一は、後年宮崎県知事になるが、宮崎でも鉄道連隊との連携により宮崎県営鉄道を敷設している。
 多古線・八街線のうち、最初に手掛けられたのは、多古線であった。成田から三里塚に至る区間(10.1km)が開業したのは明治44年(1911)5月で、7月には三里塚貨物支線(0.5km)が開通している。
 現在、成田空港が広がっているあたりである。続いて、10月に三里塚〜多古間の残り区間(14.7km)と貨物用の支線・栗山荷扱い所線(0.8km)も開通。
 鉄道連隊は、戦地での鉄道敷設、維持・修理、時には撤去・破壊までの実務を日々演習する組織で、多古線ももちろんその演習を兼ねて建設されたとはいえ、この施工の早さは、やはり軍事力のなす技であったろうか。燃料不足で意のごとくならない。
 軍用鉄道の資材を転用した多古線の軌間は600㎜。これは一般営業軽便鉄道としては最小で、全国的に珍しい例である。開通当初の機関車は、鉄道連隊所有のドイツ・ハノマーク製双号形蒸気機関車で重量7.5トンに過ぎず、速度は非常に遅く、馬力も弱く、途中の勾配区間では乗客が多いときは登ることもできず、乗客が後ろから押してやっと登ることができたと聞く。三里塚にあった御料牧場は桜が有名で、その近辺を狭い線路の小さな汽車が走る牧歌的な光景は、長くこの地域の人々の記憶に残ったようだ。
 多古線は、大正15年(1926)、多古から先の八日市場までを延長され、軌道は国鉄と同じ1067㎜としたが、成田〜八日市場間は直通することができなかった。
 昭和2年(1927)4月、成田市内を走っていた路面電車の成田電気鉄道に払い下げられ、成田電気鉄道は会社名を成田鉄道と改めて運営の再建を図ることになった。
 成田鉄道(千葉交通の前身) はさっそく成田〜多古間を軌間1067㎜に改軌する工事に着手、昭和3年(1928)に完了した。同時に成田〜東成田間、千代田〜染井間の線路変更を行い、成田裏は移転し、西成田に名称を変更し、五辻・飯笹も移転した。また、多古町の中心にあった多古駅は八日市場に向かう路線が多古郊外に接続されていたため、その路線上にあった多古仮駅に移転した。成田〜多古間は20.8kmとなり軽便鉄道時代より2.7km短縮された。特に千代田〜染井間では大きく北に迂回し、勾配区間のあった線路を短縮ルートで切通しと築堤をつくり直線的かつ平坦にした。また、他の鉄道会社に先駆けてディーゼル機関車やディーゼルカーを採用するなどしたことから、所要時間も1時間と大幅に短縮された。
 八街線は、三里塚〜八街間13.8kmとして大正3年(1914)3月に開通した。
 前年、千葉〜三里塚間軽便鉄道敷設大演習の際に敷設された線路の一部を、演習後、県営鉄道に組み込んだものである。千葉県と鉄道連隊との良好な関係がものをいった成果と言えよう。同線も軌間は600㎜である。
 車両からレールなどの資材貸与、敷設、そして管理、運行も軍隊が担うという形でスタートした県営鉄道多古・八街線だが、列車ダイヤは軍部の意向が優先されるなどのため、乗客の利用状況は良くなく、経営状態は厳しいものであった。
 一方、軌間600㎜のままで残された八街線は、運行の合理化を目指して、昭和5年(1930)に単端式ガソリンカー(進行方向側にだけ運転席を設けている)を2両導入してスピードアップに務め、営業成績は向上したようだ。
 開通が軍部と深くかかわった多古線・八街線は、終焉もその影響を受けることになる。
 八街線は昭和14年(1939)、富里村に陸軍による飛行場建設が始まり、路線の一部区間が障害になるために休止、戦後昭和21年(1946)、再会かなわず廃止となった。
 軽便の名の通りトロッコ同様に軌道が狭い鉄道(600㎜)で、速度が遅い(大正8年の時刻表によれば多古〜成田間は1時間45分)ことと時間の合間があることで有名だった。
 成田鉄道では、この年から翌年にかけて軌道を広げる工事を行った結果、春の観桜時期には、東京の上野駅(成田線経由)と両国駅(総武線経由)から、成田駅を経て花の名所・三里塚まで、直通列車が乗り入れるようになったのである。昭和4年の三里塚までの運賃は、上野駅からが1円25銭、両国駅から1円23銭であった。
 路線は成田駅(国鉄に併置〜0番線)から、JRに並んで郷部の橋の下を通り、市立成田中学校の裏側で分離し、不動公園駅(成田山霊光館の裏側でのちに西成田駅と変更)・東成田駅(寺台のAコープ成田付近)・法華塚を経て三里塚駅・千代田駅・五辻駅(現在のバス停)・飯笹駅(現在の加藤商店前)・染井駅(現在の小川木材前)・多古駅(現在のヤックス店前)である。その後支線として大正3年(1914)5月18日に、三里塚〜八街間も開業している。多古駅から田町通りが直進しているが、これもレールが敷設(引き込み線)されていた。多古道の駅に架かる296号線の橋を現在も鉄橋と呼んでいるが、昔の名残である。
 成田から三里塚までの軌道で最も勾配のきつい難所があり、列車が坂を上るのに一苦労で重量を軽くするのに、列車から降りて歩く人もいたという。坂道だけでなくスピードが遅いのも有名で、小説家「平林たい子」は自叙伝的作品「砂漠の花」の中で次のように描写している。
 「電灯がないんで、室ごとに、灯明のようなランプがおいてあるんだぜ。便所ももちろんない。汽車がカーブするときに、とびおりて用をたして、また走って乗るんだから、のんきなものさ」
 平林は、昭和の初めに、成田から多古へ行くのに、この軽便鉄道に乗車しているが、彼女自身が用をたしたとは思われないので同乗した男性客の様子を見て、のどかな雰囲気に驚いたのであろう。
 このように住民に親しまれた軽便鉄道であったが、昭和19年1月10日、軍の方針により営業が廃止となり、以後、三里塚へはバスが運行されるようになった。現在多古地区もJRバスが走っているが、これも軽便鉄道廃止された結果である。
 徴用された機材や線路はインドネシアのセレベス島に運ばれる途中戦闘機の攻撃に遭い輸送船とともに海に沈んだといわれる。
 このような運命をたどった鉄道であるがその遺物は少なく、土屋の橋脚跡が在りし日を偲ばせる貴重な存在といえよう。
 橋脚と道路を挟んで反対側に、細い道がある。これが江戸時代の旧道で、ここを進んで成田中学校の前を通り幸町に至るのである。
 三里塚の地名は2説ある。1つは佐倉城を起点とするもので、酒々井・根木名を経て三里になるというが、途中の一里塚と二里塚の跡がない。
 今ひとつは多古町の日本寺を起点とする説である。日本寺は中村檀林とも呼ばれる日蓮宗の学問所で全国各地から多くの学僧が集まった寺院である。その学僧たちの目印として、江戸まで1里ごとに法華塚を築いたとされる。全部で17ヶ所築き、一里(染井)二里(加茂)三里(三里塚)四里(法華塚)と続く。日本寺起点説のほうが有力のようである。四里の「四」は、「死」と発音が同じになり、縁起が悪いということで、四里塚を法華塚にしたという。法華塚の由来が、三里塚方面から成田市内に向かい、京成電鉄が走っている線路をまたいだ橋を過ぎると、県道右側に細長い石碑が建てられている。

軽便鉄道多古線・八街線

      軽便鉄道多古線・八街線

全国の軽便鉄道(各県ごとの数)

(北海道 12+1)(青森 1)(秋田 1)(岩手 3)(山形 1)(宮城 8)(福島 6)(群馬 4+1)(栃木 3)(茨城 4)(埼玉 1)(千葉 5〜千葉県営鉄道多古線・八街線、九十九里鉄道、千葉県営鉄道久留里線、夷隅鉄道、流山軽便鉄道)(東京 1)(神奈川 2)(新潟 3)(長野 0)(静岡 8)(富山 2)(石川 2)(福井 2)(岐阜 3)(愛知 1)(滋賀 0)(三重 4)(京都 0)(奈良 1)(和歌山 0)(大阪 1)(兵庫 1+1)(鳥取 1)(岡山 6)(島根 0)(広島 3)(山口 2)(香川 0)(徳島 0)(愛媛 4)(高知 0)(福岡 11)(佐賀 4)(長崎 1)(大分 3)(熊本 2)(宮崎 1)(鹿児島 1)(沖縄 1)
北海道遠軽町(丸瀬布森林公園いこいの森)今でも乗れる。
栃木県日光市(足尾銅山のガソリンカー)NPO法人「足尾歴史館」により忠実にガソリンカーが復元され、4月〜11月の毎月第一土曜日に定期運行している。
兵庫県養父市〜朝来市(明延鉱山の一円電車)鉱山鉄道だが便乗と称して人を乗せた。動力は電気で昭和4年(1929)開業し、昭和63年(1988)閉業したが、近年、地元有志による復活運転が持ち上がっている。

成田鉄道多古線

       成田鉄道多古線

 軽便鉄道多古線の敷設から廃線、省営バスまでの苦労の一端を記録に残された「多古線敷設秘話史」(山崎峰水)を以下掲載させていただく。
         加瀬正一

多古線敷設秘話史

 山鳩が鳴いている静かな城下町。この多古にも時代の流れに沿って県営軽便鉄道が敷かれた。初めに成田と三里塚御料牧場を結ぶ第一期工事が終わった。
 明治44年10月8日、成田・多古間に開通をみた。町を挙げて開通祝賀会が催され、田舎風の踊り舞台が造られ、花火が打ち上げられた。石本静陸軍大臣が臨場され、静かな町にも世紀の大祝典が挙行されたのである。千葉県鉄道隊の練習敷設のために陸軍大臣が臨席されたのも和やかな田舎風景のひとコマであった。
 初めて汽車を見た村人たちの、土のにおいのベールをはがしたような明るい表情が町の隅々にまで流れた。16ヶ町村に亘る沿線住民は農産物資の輸送機関としてみなこの鉄道に頼ったのだ。
 商工業もまた客の送迎に、購買力増進に懸命だった。しかしこんな平和な町にも戦争という冷たい風が吹き始めると、毎日のように来る召集令状⎯⎯⎯⎯⎯⎯、銃後を守る者には軍需工場への徴用令がかかる。戦線は広がった。印度からフィリッピンに、そしてマライ半島にまで⎯⎯⎯⎯⎯⎯。
 出征兵士の見送りにも「歓呼の声に送られて・・・・」軍歌調でなくなった。万歳の声もいつの間にかかき消されて、こっそりと身の回りの物を風呂敷に包み、日の暮れるを待って郷里を発つような有様になった。(動員兵はスパイに洩れるのを恐れて)
 戦線将兵への食料は日ごとに緊迫を告げた。代用食の芋の供出は厳しくなっていく。銃後の老人たちも鍬や鎌を持つようになった。
 多古・成田・八日市場の沿線16ヶ町村に亘る駅頭には食糧になるべき芋の山が、うず高く積まれた。燃料が不足しているので、輸送は意のごとくならない。供出命令は次々にくる。どうしてもこの鉄道に頼るほかない。
 こんな有様の中に、突如、この鉄道の撤廃が示された。理由は、この大東亜戦争に、ニッケルが必要だ。今、セレベスにあるニッケルを積み出すのに、どうしてもこの30kmの鉄道が必要とのことである。(のちに海の藻屑になったことを知る。)沿線民は首をかしげて考えた。ニッケルもさることながら、より必要なのは目前の逼迫した食料の確保ではないかと。
 これをどうする?沿線16ヶ町村の代表者は鳩首協議を重ねた。地元の多古町は役場に集まり代表者会議を開き、時の久賀村長菅澤重義氏を議長として撤去反対運動の委員を挙げた。そして存置嘆願の陳情をすることにした。
 時の貴族院議員菅澤重義氏(多古町出身)のご協力を仰ぐべく上京して具に事情を述べた。先生は事の次第を憂慮され、沿線町村の重大問題としてただちにこれらの件に精通している多古町出身の鉄道省資材課長芳次利二氏に連絡し、陳情の方途を協議した。課長は戦争の現状を詳しく説明し、あらゆる情勢からして、この鉄道存続の嘆願は無理だと語った。そしてこの陳情運動にひとつの障害があった。ひとりでさえ上京するのが困難になってきた折、16人もの切符はますます入手が難しくなる。その上、東京滞在の宿がない。食糧がない。時には菅澤先生の2階に泊めていただきつつ、協議を進めていく。次の上京には両国ホテルへ食料と燃料を持参し、辛うじて2泊の陣を張る。
 ところが、今度は新しい事態が起こった。昭和18年9月9日、イタリアが英・米に対して無条件降伏し、世界情勢が急に騒然としてきた。この矢先、鉄道撤廃反対は国策に反するもので、国賊に等しいと…として佐倉憲兵隊を廻してきた。
 戦争が緊迫するにつれ鉄資材の必要なことは良く解る。しかし、この多古線鉄道にのみこれを求めなくてもほかにいくらでもある筈である。しかも僅かに30kmほどの鉄道だ。沿線16町村はこれに生活をかけている。ひいては町の存亡に関わることなのだ。存置を願う町村民は、敢て横車を押して撤去反対を押しているわけではない。
 撤去するならそれに代わるべき輸送機関がある筈なのに、遮二無二剥がそうとしているのが理解できない。子どもの持っているものを取り上げようとするなら、それに代わるお菓子ぐらい見せてやる知恵がありそうなものだ。それをお菓子を与えないで憲兵隊を与えている。何だか威しをかけているような気さえする—————。
 憲兵隊の威力は町民を震え上がらせた。町の旅館「登喜和」に宿泊していて、陳情団の行動を非国民であるとして我々の家庭を訪ねた。どの家庭でも憲兵隊にたずねられることは心穏やかでない。主人の帰宅を待っていた妻達は、「あなたが陳情に上京したあとへ3回も憲兵隊が見えたんです…。いい加減なところで手を引いてはいかがですか…。いかに町のためとはいえ、留守をしている身にもなって下さい…。」
 「今更、何を…。この陳情は俺の好き好んでやっている事でもなければ、町から依頼されたものでもない。国賊呼ばわりするのは向こうの勝手だ。この鉄道を守り抜く必要は今に国が知ってくれる…。」と言い捨てて成田行きの汽車に乗り、三里塚で宮野雄亮氏、遠山村の藤崎翠氏と合流して上京した。両国ホテルには5人の同志が待っていたので、すぐに鉄道省の長崎長官を訪問した。
 戦争は日を逐して苛烈になり、国はこの鉄道をあくまで必要とするのだ…と聞かされ、我々の言い分をあまり聞こうとしない。我々の町村でも戦没者を出したり、負傷兵を迎えたりしているのだから戦いの苛烈な事はいわれるまでもない—————。
 ——————陳情嘆願の手は緩めなかった——————。
 昭和18年12月25日午後5時。企画院の2階に前後して14人の我々陳情団は顔を揃えた。八田大臣から緊迫した国情をつぶさに聞かされた。資材局長からも諭された。そして今日も郷里で憲兵隊にたずねられている事だろう。陳情団の同志の心が少し揺れ始めてきたのも無理ないことだ。無言のうちに人の心は動くものだ。一つの願いを込めて主張しているときは熱も湧いているが、黙っていると無性に弱くなるものだ。あー崩れかけた同士14人…。戦い抜いてここまで存置を熱願してはきたものの、祖国危うし…と聞けば断念するのも憂国の士ともいえよう。
 所詮は運命ともいうべきか——————。半数の7人は郷里へ帰ることになり、残る半数の7人(筆者も含めて)は東京に留まることになった。今日まで行動を共にしたものが思いを別々にして別れた。去る者を呼び止めたところで詮ないことだ…。陳情団は遂に二つに割れた。我々は直ちに菅澤先生にこの事情を告げねばならない。
 この話を聞いた先生は大きく頷いて、「今ここまでやってきた君等の主張と行動をここで捨てるとは一体どういう事だ。断念することはまだ早い⎯⎯⎯⎯⎯⎯。」そして暫く考えて「もうひと押し押してみてはどうか。私にも考えがある。早まるな⎯⎯⎯⎯⎯⎯。」7人は感激した。やっぱり留まってよかった。撤去反対の血潮は再びたぎった。我々の目頭には何か熱いものが走った。その日は三里塚までたどり着いて大竹旅館に事情を話して泊めてもらった。暗い灯火の部屋で夜食を済ませた。ここはご料地の所在地だ。場長は毎週のように宮中へ伺候すると聞く。「そうだ。宮内庁へ嘆願!」そぼ降る雨を衝いて7人は場長宅を訪れた。温顔の場長は快く我々を迎えてくれた。事情を静かに聞いてくれた上で、「明日にも次官に事情をお話し致しましょう…。そして直ぐにまた連絡します。」添い⎯⎯⎯⎯⎯⎯。7人は心から感謝して場長宅を辞した。
 翌日、場長から状況の便宜を図っていただき、直ちにまた企画院へ向かう。企画院総裁鈴木貞一閣下(芝山町出身)に面接する。眼光炯々冒すべからず、の風貌。軍鶏のようである。への字に結んだ口元は「また来たか⎯⎯⎯⎯⎯⎯。」と言っている。7人も「はいッ!再度参りました。」と口元には出さないで目で応えた。7人は固い決意を示して、まず宮野氏が「今国で鉄資材の必要なことはよく解りました。しかし…」閣下は「しかし…とはなんだ⎯⎯⎯⎯⎯⎯。」宮野氏は軽く吐息をして「政府は国民を騙しています…。」「なにッ…。今、ここに至って国民を騙してどうなるッ。」「はいッ。政府は国民に重要食糧として芋の供給を強要しているではありませんか…。」数秒の沈黙が続いた。宮野氏は続けて「地方農民は素直に政府の命令に従いました。ご覧下さい。沿線民一体、遠山、三里塚、千代田、多古の各駅には芋の俵が山のように積まれています。しかも早く供出した芋は腐り始めております。血と汗の供出です。このように供出させておいて、その輸送機関の鉄道を剥がそうとするのはあくまで納得がいきません。国民を騙したことになります…。」この言葉に閣下は大きく頷いて「資材局長を呼べッ。」と事務官に命じた。局長は今、別室で会議中、との返事を聞いて閣下は更に「会議は後で良いからすぐ来るように…。」と命じた。また数分の沈黙が続く。やがて柏原兵太郎理事長が来た。閣下は直ちに「今、車はどうなっておる?」「旅客車『いすず』が18輛、貨物車『いすず』18輛、みな北海道へ手配の車です。」閣下は静かに「では、両方とも35輛を千葉へ廻してくれんか…。」「それはどういうことです?」閣下は「後で会議する…。」会見はそれだけだった。
 我々はその成り行きを静かに待った。
 一方我々と緊密な連絡をとりながらこの運動を推進していた多古町翼賛壮年団総務米本重信(元久賀郵便局長)を動かし、県翼賛壮年団長矢野機陸軍中将に陳情、米本・萩原済・萩原久治(このあとの多古町助役)氏らは数度にわたり、稲毛の芋畑に囲まれた矢野中将宅を訪問、矢野団長から鈴木企画院総裁に強く働きかけていただいた。
 斯くして路線撤去は非常時下の国の至上命令として如何ともなし難き結末に終わったものの、その代行機関として省営バスが新設された。7人は泪せんばかりに欣んだ。
 次官は我々に対し「撤去する鉄道の代わりに省営バスの新設許可をしたのだから君等の目的は達したのだ。であるから撤廃反対の陳情書は取り下げるように⎯⎯⎯⎯⎯⎯。」と、言われる。我々は重ねて言った。「省営バスの運行を見ないうちに撤去したらこの事情を知らない沿線民はまた怒ります。それに撤去の時必ず障害が起こります。バスの運行を先にすれば撤去の時には沿線民も協力しましょう。その上で陳情書を取り下げいたします。憲兵隊もその時手を引いて下さい。」折衝はここに落着した。そして直ちに省営バス運行の新たな路線の計測が始まった。疲れた。空腹を覚えた。食事をしたが、所も店も知らない。とうとうやった。そんな貴持ちが7人の頭の中を駆け走った。この鉄道もいよいよこれが見納めか。考え深い面持ちが明るく動く。遂に勝ち取ったのだ⎯⎯⎯⎯⎯⎯。
 こんな曲折を秘めて昭和49年7月2日、多古線開業30周年記念祝賀式典が盛大に挙行された。そして、記念切符が発売された。あの企画院の2階で激論を交わしつつ撤廃反対に心労を共にした同士の大方はすでにいない。
 昭和49年8月         山崎 峰水

 秘話史の関係人物
八田嘉明(鉄道大臣)・長崎惣之助(鉄道総局長官)・鈴木貞一(国務大臣・企画院総裁)・柏原兵太郎(企画院第一部長)・芳次利二(鉄道省資材課長)・左藤栄作(鉄道省自動車局長)・菅澤重雄(貴族院議員)・宇井健二(多古町代理助役)・木川省三郎(国鉄バス協力会長)・小川豊明(多古町農協組合長)・藤崎翠(遠山村農協組合長)・宮野雄亮(三里塚通連専務)・菅澤重義(久賀村長)     以上

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